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「良き知らせを伝える者の足」

1999年11月28日

イザヤ書 第52章1~10節

辻中徹也牧師

 

  • 私は、学生の時、野宿労働者支援の活動に参加したことがあった。京都駅近辺で野宿しているおじさんに、おにぎりやみそ汁を持って訪ね歩いた。彼らの 立たされている場所と、親のすねをかじった甘っちょろい自分の立つ場の隔たりの遠さを感じた。しかし、彼らと出会った場に主イエスも共にて下さったと信 じている。臨時宿泊所へ着いたときのあるおじさんの嬉しそうな目の輝きに主イエスが共におられる喜びを見た想いがしている。

  • 第2イザヤは、紀元前539年前後、民がバビロン捕囚から解放される前後に活動した。エルサレムへの帰還と荒廃した都の復興を神の救いの実現と捉え た。しかし、半世紀を異教の地で過ごした民は、これまで築いてきた生活を捨てて、荒れ野を横切ろうとはしなかった。安住の力でない民の拒絶に、第2イ ザヤは深い挫折を経験した。

  • それでも主は民を「贖う」者である。「贖う」とは奪われた人や土地を一番の近親者が身代金や代金を支払って取り戻すことだ。やがて「贖う」は、罪からの 救いをも指す言葉となった。一番の近親者のごとく、神が圧迫された者を解放し失われたものの回復を引き受けて下さるのだ。

  • 第2イザヤを通して神は言われる。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」素足に近い姿で知らせに走った者の足がきれ いなはずはない。汗や泥にまみれているはずだ。しかし、神の贖いの知らせを人々と分かち合う「足」こそ、もっとも美しいのだ。挫折を知っている第2イザ  ヤの足もそうであったように、汚れ、傷つき傷みながらも「主の来臨の希望」を伝える「足」として歩ませていただこう。

「神のすばらしい約束」

1999年11月21日

ペトロの手紙二 第1章3~11節

辻中徹也牧師

 

  • 収穫感謝の日ということを念頭においてテキストに耳を傾けてみたい。自分は収穫の感謝から遠いところに生きてきたし、今もそうだと思う。土や肥料、汗  にまみれて天の恵みにすべてをゆだねる結果生まれるのが収穫の感謝だと思う。都会に育った自分は収穫の過程の「農」と言う世界から遠い。しかし、イ エスの譬えは「農」の体験にこそ響く。

  • 与えられたテキストは、グノーシス主義者と呼ばれる偽教師達の悪影響を重く見た著者の、教会への勧めと励ましが記されている。グノーシス主義とは善 悪の二元論でこの世を見る立場であった。創造神と被造物は悪であり、人の身体も悪とみなされた。一方、人の魂は神と同質の善とみなされた。そこから 仮現論(ドケティズム)が生まれた。キリストの死は、見かけ上のことで、キリストの魂は受難の前に身体を脱ぎ捨てたとする。

  • 新聞で「ホーリー・バージン・メリー」という聖母の絵が「反宗教的」だと物議を醸していることを読んだ。作者はイギリス在住の黒人画家でカトリック信徒だ。 彼はアフリカ旅行後、作品にゾウの糞を素材に使うようになった。ゾウの糞を使った黒人女性のマリア像は彼のアイデンティティを表現するひとつの信仰告 白だと感じた。管理され整備された都市で、「農」や自然との交流を失った宗教こそ「反宗教的」なのではないだろうか。

  • あるがままの日常を生き、隣り人を愛し、十字架の苦難を死んでいった主イエスが分からなくなったグノーシス主義の偽教師たちとどこか通じる狭さが私達 にないだろうか。信仰・徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛を力を尽くして「加えなさい」とあるが、自分の日常にこれらを具体的に喜んで注いで歩むとき、私達は主イエスキリストを知るようになり、永遠の御国に入るというすばらしい約束が与えられている。

「信仰による義」

1999年11月14日

ローマの信徒への手紙 第4章13~25節

辻中徹也牧師

 

  • アブラハムは祝福の源となる約束を神から受けました。それは私たちの教会に対してもなされている約束です。私達は祝福の源として歩んでいるか問われています。また、子のいなかったアブラハムに、神は星の数のほどの子孫を与えると約束されれました。神は神の民を選ばれました。私達の教会にも仲間を与えて下さるに違いありません。

  • パウロはアブラハムの信仰による義を取り上げて、自分たちも行いという功績や条件で義とされるのでなく信仰によって義とされることを自分の確信する福音として記しています。神と神が甦らされたイエスを主と信じるとき、わたしたちは神との真実な関係に生かされ、ありのままを良しとされるのです。

  • ひろさちや氏は日本人の宗教観は、御利益宗教でアブナイと批判しています。信仰というコインを入れれば缶コーヒーのように救いが与えられるという論理は少し違うのです。信仰のゆえに楽になったり救われることはもちろんありますが、信仰のゆえに苦しむこともあるのです。信仰がなければ耐えられない歩みを引き受けるところに救いがあります。

  • 自分の信仰というコインで神を操るのではなく、神の迫りを受けて自分を神の道具として明け渡していく中に、アブラハムの信仰があり、主イエスの示された救いがあります。私達の群にも神が神の民を増し加えて下さること、私達が神の祝福の源として生きることを神は約束されています。約束の実現を信じ、待ち望んで共に歩んでまいりましょう。

「信じる者を義となさる」

 1999年11月7日

ローマの信徒への手紙第3章21~26節

辻中徹也牧師

 

  • 今朝の聖書日課のテ一マは<保全の契約 ノア>です。人間の悪に心を痛め た主は、被造物を「地上からぬぐい去る」決意をしました。洪水の後、主はノ アとその息子達と「保全の契約」を結びます。二度と滅ぼさない契約のしるし に、主は雲の中に虹を置かれました。人間の悪は洪水の原因でしたが、その悪 を主は愛と忍耐と憐れみの対象とされたのです。肉親を失った者にとって死が 神の罰や裁きならば耐えられません。しかし、主は愛のうちに召された者をお いていて下さるのです。そこに慰めを与えられます。

  • 伴侶の死は、残された者に大きな衝撃を与え、体の変調さえきたします。 「伴侶の死を悲しむ気持の流れに素直に向き合い、感情を表現することが大切」 で、この「喪の仕事」が不十分だと、抑うつ状態がひどくなったり、不眠、食 欲不振が長引いたりするそうです。 「死別は喪失だけでなく、得られるニともある」。「悲しみを経験することで優 しくなれる。伴侶の生き方や考え方が生前よりも鮮明に見え、励まされること もある。のこされたパートナーへの故人からの贈り物」。そんな見方を勧めて いる精神科医もおられます。

  • 十字架を負って死んだイエスは、三日後復活されました。イエスの死に打ち ひしがれていた者が再び立ち上がり、生き生きと生き、他者をも生かす者ヘと 変えられました。彼れもまたイエスから贈り物を頂いたのではないでしょう か。ファリサイ派という律法主義者だったパウロも、回心の出来事の中で、イ エスからこの贈り物をもらったのでしょう。

  • イエスをキリスト、救い主と信じ受け入れることにより、「神の義」が与え られるとパウロは記しています。「神の義」は神と人間との関係が真実なもの となり、人間が神の愛の対象として救われる、その実現を言います。死に至る まで神の愛を生き抜かれたイエスと出会い、信じ、受け入れるところに神と私 の関係は回復されます。イエスが死によって与えた贈り物は復活の命であり、 永遠の命です。ー人の人間がそニに生きる力を与えられるのです。そして神の 国はその一人を通して生み出されていくのです。この自覚を持って与えられて いる命を生きる者とならせていただきましょう。

「新しい神殿」

1999年 10月31日

ヨハネ福音書第2章13~22節

辻中明子牧師

 

  • 日本人は、「感情的」であると言うとを不定的に受け止めが ちです。聖書にもイエスの「感情」を表現する場面は限られてレ』 ます。しかし、イエスご自身は、出会っている人々の感情を大切 にし、また、ご自身も感情的に行動されたのではないかと思いま す。

  • 神殿でのイエスのー連の行動は、まさにイエスの激しい怒りで す。人々は、過越しの祭りにエルサレムの神殿ヘ規定どうりの捧げ 物を携え参ることが、人生の重大事であり、信仰の証しでし た。多くの商人が便宜をはかり不当に利益をあげていました。 46年かかって造られた伝統的な神殿に中心が置かれていました。 イエスは、この信仰を怒り「イエスの十字架」こそ中心であると 宣言しました。

  • 本日は、宗教改革を記念した礼拝です。伝統の上に築きあげら れた形骸化した信仰が崩されたことを覚える日です。そして、今 私たちにも、同じ問いがなされています。これまでの価値基準に しがみついている私たちの生き方から、イエスご自身が「新しい神殿」 であるという生き方へと変えられたいものです。

「キリストによる創造と和解」

1999年10月24日

コロサイの信徒ヘの手紙 1章15~20節

辻中徹也牧師

 

  • 教会暦は今日から降誕に向かう新しい一年を歩み出します。聖書日課に与えられたテーマは「創造」です。与えられたテキストは「御子キリストによる創造と和解」という標題のついた文章の一部です。私たちには「キリストによる和解」はなじみやすいです。神と人間との間にある 的外れという「罪」を主が十字架の苦難を受け顧ってくださいました。 けれども、「キリストによる創造」となるとあまりなじみがありません。

  • ヨハネ福音書の冒頭を見ますとロゴス・キリスト論と呼ばれる神学思 想が展開されています。天地の創造に立ち会った人間はいません。しか し、キリストを知った者がキリストをどのような方なのか言い表そうと したとき、また世界が創造された始まりがどのようであったか語ろうと するとき、その出発点は「言は肉となって、私たちの間に宿られた。 私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵 みと真理とに満ちていた。」というキリストとの出会いの中にあるので す。

  • コロサイの信徒への手紙の著者もまた「…万物は御子において造られ たからです。万物は御子によって、御子のために造られました。御子は すべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と記しています。万物の始まりに先んじて御子キリストが神と共におられた。そう告白し、讃美せざるを得ない出会いをこの著者もまた体験しているのです。神の人間に対する愛は、御子キリストの内に溢れるごとく余すところなく宿り、十字架の死によって平和を打ち立て、ご自分と万物を和解させられた。この出来事との出会いが「キリストによる創造」の告白と讃美を呼び起こしているのです。

  • キリストの示された愛が万物を貫いている。それは今、この時に至っても真実です。宇宙のどこにいても、いついかなるときもクリスマスの喜びは私たちを貢いているのです。その喜びに応えて歩む者とならせていただきましょう。

「主の食卓」

1999年10月10日

ルカによる福音書 14章15〜24節

辻中明子牧師

 

  • イエスは、私たちを共に生きる相手として「主の食卓」に招 いて下さっています。

  • 「大宴会」のたとえによると、①財産や家族を理由に招きを 拒むグループ。②貧しい人、体の不自由な人ゆえに招かれた グループ。③さらに、強制的に、無理にでも招かれるグループ が登場しています。①のグループは、私たちの姿と重なりま すし、②のグループは、成程イエスのいつものメッセージと重 なります。③のグループの登場の意味はなんでしょうか。イエ スは③の人々をより強く招いているのではないでしょうか。

  • イエスの招きとは、私たちの決断や判断が優先したり、招か れるための納得の理由があったりするのではなく、私たちの状況にお構いなく、在る意味で強制的で無理やりともいえる迫力 があるのです。

  • イエスの「強制された招き」が無かったなら、私自身洗礼を うける時も、牧師への決断も含めこうして教会に連なってはいなかっただろうと思います。私の思いを超えて、神は本気で招 いてくださることに、大きな喜びを感じます。 共に「主の食卓」にあずかりましょう。

「わたしは生きている」

1999年10月3日

ローマの信徒への手紙 14章7~12節

辻中徹也牧師

 

  • マザーテレサは名刺にこんな言葉を記していたそうだ。  『沈黙の果実は祈りである。   祈りの果実は信仰である。   信仰の果実は愛である。   愛の果実は奉仕である。   奉仕の果実は平和である。』 彼女の偉大な働きは沈黙から始まった。「私は生きている」と語られる神との出会いが一人一人の人間を 変え、方向づけ、社会を変えていく。

  • 「私は生きている」という神の語りかけを私たちは聖餐において与えられる。聖餐において主イエスを想い起こすとき、神が復活させられた主の命が、私たちを根底から生かす。聖餐に与った私たちは、新しい神の器として、キリストを頭とする体として、この世界への宣教へと招かれ、遣わされ、押し出されていく。

  • 私はクリスチャンホームに育った。自分にとっての教会は多面的で、教会が好きだと胸を張って言える出会いもあったが、一方で「理屈、退屈、窮屈」を強いられる場でもあった。「主のために生き、主のために死ぬ」(7節)と書かれた短冊を親が部屋に掛けたとき「もうあかん」と窮屈さに耐えかねた思い出がある。その私を救ってくれたのは「ブラザーサン、シスタームーン」というフランシスコの生涯を描いたイタリア映画だった。あなたはあなたのままでいい、神は愛していて下さる。そんなメッセージを与えられた。感動にふるえていた私は、「私は生きている」という神の語りかけを聞いていたのだと思う。

  • 今朝の箇所は、パウロが兄弟を裁く者に、「私は生きている」と言われる神こそが一切の基準であり根拠であると語る。人はどうであれ、今、ここに生きる「私」が主イエスによって、神によって、何を望み、いかに喜び、どこへ向かう勇気を与えられているのかを問われている。私たちは一切の罪や過ちを越えて、この問いに応える者でありたい。

「憐れみを受けました」

1999年9月19日

テモテへの手紙一 第1章12~17節

辻中徹也牧師

 

  • 『心病める人たち』(石川信義著 岩波新書)は開かれた精神医療について書かれたもので、「自由こそ治療だ」という理念が貫かれている。ある精神病院で調べたアンケートによると、病院の近くに住む人は、遠くに住む人よりも患者を見かけ、迷惑をしているが、「患者が隣へ越してきて住んだら」患者を受け入れ助ける意識のあることが分かった。「よそへ行け」というのは患者と接する機会の少ない遠い人なのだ。戦前、彼ら(精神障がい者)の生活の中に私たちがいたし、私たちの生活の中に彼らがいた。著者は、彼らに寛大で、彼らをいたわり、大事にして援ける国に私たちの国を変えていかねければと強く願っている。

  • 私たちの教会も島松病院に入院している患者さん達とつながりがある。例えば山下雅昭さんと水沼松男さんは一週おきに必ず礼拝に来られる。閉鎖病棟におられるので外出には送り迎えが条件になっている。渡辺勝さんは「ほっとタイム」の常連だが開放病棟におられれるので単独で外出が可能。教会へは歩いて来られる。毎週火曜日、牧師は島松病院を訪ね、佐藤輝幸さんと坂本信行さんと会っている。体調に合わせおしゃべりし、ときには聖書や入門書を読んで語り合い、祈って別れる。楽しい一時である。そういう私もうつ病で、二年前植苗の精神病院に入院し、今も通院をし続けている。

  • 心病める人たちとの出会いの積み重ねが精神障がい者を閉じ込める壁を崩していく。そして、社会が持つ壁も崩していく。何よりも自分は健常者だと思っている人の不自由さや囚われを取り払うということも起こってくる。健常者の側に「障がい」が有るからだ。

  • パウロは律法を盾に取り「罪人」を裁き、キリスト者への迫害にも荷担し、石で打って彼ら(キリスト者)を殺すことにまで加わった。それほど律法にしがみつく生き方をし、律法という壁に囚われていた。しかし、ダマスコ途上で光と出会い、主イエスの声を聞いた。主イエスこそ「罪人」を無条件に受け入れ、神の国はあなた方のものだと宣言し命がけで歩いた救い主だ。「罪人」はそのレッテルから解放され、神の愛を知り、救い主を躍り上がって喜び、宣教の主体となっていった。パウロは彼らが罪人なのではなく、彼らを裁き迫害した自分こそ「罪人の最たる者、頭であった」という痛恨の告白をした。同時に「憐れみを受けました」という真実な解放の喜びを告白している。小さくとも、それゆえに大きな出会いによって私たちが神の愛へと解放されることこそ、神のみ旨である。

「自由な人として」

1999年9月12日

ペトロの手紙一 第2章11~17節

辻中徹也牧師

 

  • 迫害を受けているキリスト者に書き送られたこの手紙は、苦難の中の喜びを語っています。「キリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい」(4:13)と勧めています。

  • わたしたちはありのままの自分をなかなか受け入れられません。弱さ、身勝手さ、罪深さ、醜さ、虚しさに無力を覚えます。福音書の告げる主イエスは、そんな一人ひとりのどうしようもなさを十字架に至るまで引き受けてくださいました。主イエスは「罪人」の一人となり、「小さき者」の一人となり、一人ひとりを縛るマイナスのレッテルから解き放たれました。そんな主イエスと共にあるとき、私たちの魂は生き生きとした息吹を与えられ、自由へと解き放たれます。迫害の中で主イエスと共にある喜びを証ししていくようにという勧めは、迫害されている者を生かすだけでなく、迫害する者をも変え、生かしていく道なのです。

  • この手紙は「人間の立てた制度に従いなさい」「皇帝や総督に服従しなさい」と勧めています。それもキリスト者の自由に含まれるのかも知れません。作家のいのうえひさしさんは「民主主義という者は面倒くさいものだ。…面倒くさいことは嫌だから政治を誰かにまかせるということであれば、結局、貴族や天皇のような王様に支配してもらうことになる。しかし、われわれは戦後、国民主権の名のもとにこの『面倒くさい』ことをあえて選び取ったはずではなかったか。」と言われます。自由な人として生活すること、神の僕として行動することを、特に今の時代に求められています。しかし、それはとても「面倒くさい」ことかもしれません。

  • 主イエスの愛に立ち返り、神さまが愛してくださっている喜びを受けるとき、私たちは自由な人として呼び出され、神の僕として行動することへ押し出されます。面倒くさいことを喜んで担えるほどに私たちを変えてくださるのです。