「それ自体汚れたものはない」

1999年 8月 8日

ローマの信徒への手紙14章13~15章 3節

上島一高牧師

 

 教会が出来たばかりの頃、二つのグループの対立がありました。宗教的な旧い戒めを守るために、新しい習慣について認めることが出来ず、これを糾弾してしまう者(弱い者)と、信仰によって、これらのタブーから自由になっているもののその自由さを不自由な人々に対して強烈にデモンストレーションした者(強い者)です。  パウロは、本当の強さは、自由でないなあと思われる人々がこだわっていることの表面的姿にとらわれ軽く見たりするのでなく、こだわっている先にあるもの根っこにある大切なもののゆえに、彼らを尊敬する所に現れると言います。彼らは「源との生きたつながりあればこそ」そのように行うのです。源であるキリストは「御自分の満足をお求めにならず」、かえって苦難を忍ばれた方でした。この「キリストに仕えよ」とパウロは呼びかけます。呼びかけに応え、キリストに仕える姿の中に、本当の自由や本当の優しさはあります。  私は、5月より、神さまの導きで、担任教師不在の厚別教会の代務牧師を仰せつかっています。この間、肝臓ガンと診断された一人の男性の病床に、危篤の連絡を受けてかけつけ、聖餐式を執行しました。  厚別教会の聖餐式は、クリスチャンのみが与るのですが、パンと杯の準備をしてくださった教会員の山崎夫妻は、未信者のご家族のことを考えて、伝統が破られてもいいのではないかと覚悟されたそうです。私は私で、悩みつつ、伝統を守ることにしました。そのような思いを互いに抱く中で、まさに、「キリストに仕える」中で営まれた聖餐式に、神は確かに臨在されました。やり方云々を超えて、危篤の兄弟と食卓を囲む人々の間に恵みが与えられたのです。いま、私は、新たな感謝の思いを与えられています。

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