Archive for 説教要旨

「共に喜ぶ」

1999年 6月 6日

フィリピの信徒への手紙 第2章12~18節

辻中徹也牧師

 

  • 新ガイドライン関連法の成立、通信傍聴法を含む組織的暴力犯罪対策3法の衆議院通過、「日の丸・君が代」の法制化と、日本は戦争のできる国家になろうとしている。

  • ジャーナリストの辺見庸さんは戦場にも行かれた人で、見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだりした身体的な戦争イメージを持っておられ、戦争イメージの欠如された中での議論は危険だと主張されている。そしてもう一つ、今の日本は、全員が自覚なき共犯者で、無責任が絡まり合い、発酵し合う「ヌエのような全体主義」にのみこまれ議論が死んでいる、と書いている。不気味で曖昧な全体主義に呑み込まれないしっかりした「個」を鍛え、命がけで反対していくしかない、と言う。

  • 今朝のテキストでパウロはフィリピの信徒に「従順」をすすめている。神に対し従順であろうとするとき、神は私たちの内に働き、御心のまま望ませ、行わさせてくださる。主イエス・キリストにも使徒パウロにも「従順」という道が開かれていたように、私たちにも開かれている。獄中にあり殉教さえ見据えながらパウロは「共に喜ぶ」世界へ私たちを招いている。神に従順に生きるとき私たちは、暗闇のような世で「星のように輝き」人々に永遠の命を与える「命の言葉をしっかりと保つ」ものとされる。そこに喜びがある。

  • 不気味で曖昧な全体主義に呑み込まれない「個」として生きたモデルを、私たちは主イエス・キリストと使徒パウロの中に示されている。神への従順を求めて生きるとき、私たちは見えない牢獄に取り囲まれたような状況の中でも、「個」を鍛え、命がけで反対していくことを共に喜べる世界を歩むことができる。その招きに応えて生きて行きたい。

「あなたがたは力を受ける」

1999年5月23日

使徒言行録 第1章1~11節

辻中徹也牧師

 

  • 疲れたとき、不規則にだらだらと過ごすことにしています。心の規則はだらだら過ごしているあいだにリズムを整えていくもののようです。誰しも「安息日」が必要です。本当の「安息」は、神を礼拝し、「罪人」である自分を知り、神を知ることにあります。

  • ゆっくり、気軽におしゃべりすることが大事だと感じています。だらだらしているように思えても、その中に発見があり、大きな役割を果たす「ことば」との出会いがあります。ペンテコステの出来事も「ことば」と関係しています。「神の偉大な業」という一つのことが多種多様な聞く人が慣れ親しんだ故郷のことばで自由に語られたのです。

  • 「神の偉大な業」とは、主イエスの十字架と復活によって、神の愛と赦しが示されたと言うことです。聖霊が降ったとき弟子たちはそのことを「私」に起こった福音として理解し、語らずにはおれない力を与えられたのです。

  • バベルの塔の物語は、同じことばを使い、分かり合えた世界が、神をないがしろにしたり神に成り変わったため、神によってことばが混乱させられたことを伝えています。教会を建てる力の源は、人間のひとりよがりになりがちな危うい力ではなく、聖霊の働きによるのです。たくさんの課題の前にたじろぎ、力んでしまう私たちですが、本当の「安息」に身を置いて、聖霊の働きを祈り求めて行きたいものです。

「世の終わりまで共にいる」

1999年5月16日

マタイによる福音書第28章16~20節

辻中徹也牧師

 

  • 11人の弟子はガリラヤの山で復活の主にひれ伏したが、疑う者もいたとあります。「山」はイエスがサタンに試みられ、変貌し、教えを説かれた場所です。言わば「教会」であったのですが、疑う者もいたというのはマタイの教会の現実であったようです。他の福音書が復活の主の顕現をいくつも記しているのに対して、マタイは主の言葉を記しています。主の言葉に従うとき疑いは晴らされていくのです。

  • 死を見つめることによって、はじめて、生を見つめて生きることができます。イエスの生を知ることは十字架の死を見つめるところから始まると言ってよいのかも知れません。イエスは政治犯、冒涜者、革命家として死んだとも言えます。しかし、そこには弟子たちの裏切りがありました。裏切った者にとって十字架は贖罪(罪の赦し)となりました。イエスの復活は愛の復活であり赦しの実現であったからです。

  • 「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という宣言に支えられて、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたことすべてを守るように教えなさい」と私たちはこの世界に遣わされています。

  • 私たちが本当に生きることを願うならば、キリストと共に死ぬことを求められるのです。キリストと共に死ぬことによって、私たちははじめて真に生きること、つまり、キリストと共に生きることができるのです。

「神のラッパが鳴り響くとき」

1999年5月9日

テサロニケⅠ 4章13~18節

辻中徹也牧師

 

  • 今日は母の日ですが、教会の父といってもいい田川正悦兄が7日(金)未明に天に召されました。正悦さんは戦後まもなく洗礼を受けておられます。数年前に大腸がんの手術をされ、しばらく順調でしたが、2年前に肺がんにかかられ9時間の大手術をも受けられました。頸椎(けいつい)に転移し治療を受けられていましたが肺炎にかかられ、ついに神のみもとへ召されました。人間の生は死と向き合うときにその意味が鮮明にされるものだと思います。ウイスキーの原酒が樽の中で熟成していくように、死を見つめるときに生もまた熟成していくのでしょう。

  • 原崎百子さんもまた1978年8月、肺がんによって夫と4人の子どもを残し43歳でなくなられました。著書「わが涙よわが歌となれ」は、なくなる1月半前、夫から病名を告げられた後、書き続けられた日記とテープをもとに編集された遺稿集です。「これまでの一切は、これから始まる<死>までのよい準備期間であった」と記されています。彼女が残された言葉は、人間が人間であるがゆえに持っている弱さや限界をあるがままにみつめつつ、その人間を越えた神(いのちの源)に自己をゆだねて生きるとき、そこから無限の恵み、力を受けて、限りあるいのちを輝かせて生きうることを教えてくれます。

  • パウロは、こわれやすく、もろい器である人間が、その器の中に盛られた宝-測り知れない神の力-によって、こわれゆく器を越えて生かしめ、いかなる困難に出会うとも、再び立ち上がる力を与えると語っています。神のラッパの鳴り響くとき、私たちがどう生きてきたか、どう生きているかが明らかになります。それがいつなのか私たちには知らされていません。しかし、そのとき私たちにキリストが再び臨まれるのです。そして、すでにキリストに結ばれて死んだ人たちが、キリストと結ばれていたがゆえに永遠のいのちを与えられて今も生かされていることを知らされるのです。

  • 百子さんは「愛する子どもたちへ」のなかで「一人一人をかけがえのないものとして、慈しんで下さっている神様の愛を信じて欲しい。たとい、お母さんが天に召されても、それでもあなたがたが信じ続けられるように。悲しみを乗り越えて生きていけるように。覚えて欲しい、私の愛は小さな支流、神さまの愛こそが本流であると。」と記されています。正悦さんが示して下さった愛もまた神の愛という本流から流れ出た支流であります。私たちもその歩みに倣って生きる者とならせていただきたいと祈りましょう。

「福音を宣べ伝えなさい」

1999年 4月18日

マルコによる福音書16章9~18節

辻中徹也牧師

 

  • 30年ほど昔のヒット曲に「帰ってきた酔っぱらい」があります。飲酒運転で事故を起こし天国に行きますが、天国は「酒はうまいし、ねえちゃんはキレイだ」と言います。しかし、そこに神さまが現れ「もっとまじめにやれー」と地上に追い返されます。

  • 最近、天国というのは、この自分が今この瞬間、ここに生かされていると言うことだと想うようになりました。生きていると、辛さ、苦しみ、悲しみ、不安があります。自分を見つめると罪の深さに気づきます。そんな自分ですが、その自分にすで決着がついていることを聖書は示します。ヨハネの手紙Ⅰの4章10節「神が私達を愛して、私たちの罪をつぐなういけにえとして御子をおつかわしになりました。ここに愛があります。」神の愛を知るために主イエスと出会うように招かれています。主イエスを知るとき私たちは天国を生きる者とされるのです。

  • 今朝の箇所は、マルコ福音書が著された後に付け加えられた部分です。唐突な終わりに問題を感じた後の者が復活の主との出会いと世界宣教への派遣を付け加えたのです。マグダラのマリアとエマオへの途上にあった二人の弟子が復活の主と出会います。その知らせを受けた11人の弟子は「信じなかった」のです。そこへ復活の主は現れ彼らをとがめます。十字架の死を越えてイエスとの出会いを生き生きと生きたマリア、落胆と復活の知らせの驚きの中で復活の主に「心を燃やされた」二人の弟子。彼らの内には主の復活の命と喜びが宿っています。にもかかわらず不信仰で頑なであった弟子はとがめられたのです。

  • 今、ここで、あなたが生かされている瞬間、私も共にいる。いかなる罪も死も私たちを滅ぼすことはできない。私の内に神の愛とゆるしを見出し、信じなさい。そして「全世界へ行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」この福音を生きるように主イエスは招いておられます。私がどんな者であっても、どんな状況に置かれていたとしても、今、ここに生かされているところから福音を生きる者として生き始めることへ私たちは招かれています。

「恐れることはない」

1999年 4月11日

マタイ福音書28章1~15節

辻中徹也牧師

 

  • 今日の箇所は、イエスの復活の出来事を記した箇所です。この記事を読んで、疑問に思うことがあります。「からだのよみがえり」とは一体どういうことなんだろうと思います。それが肉体の甦りであるならば、信じられないし、不自然だと思うのです。また、空になった墓の伝承を、どう受け止めたらいいのかと戸惑います。

  • マタイ福音書が土台にしたマルコ福音書では、主の復活を知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と記しています。確かに死んだイエスの復活とは恐ろしい出来事であったのです。それは自然な受け止め方であったと思います。

  • 復活を伝える福音書に共通して記されていることは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」という言葉です。ガリラヤはイエスが生きて働かれた場所です。病人や障がいを持つ者を癒やし、「罪人」と食卓を囲み、神の国の到来を宣言された場所です。ガリラヤという場所へ私達が立ち戻るとき、私達は生きておられる主イエスと出会うことが約束されているのです。そこで、主イエスの甦られた「からだ」と再び出会うことが赦されるのです。

  • 来週は教会総会です。「共にある」という視点から私達の成した活動をもう一度ふりかえり、さらに「共にある」ことへ向かって歩み出すときに、主の生々しく生き生きと生きておられる「からだ」に私達は出会うことを約束されています。「恐れることはない」と、喜びが備えられ、生きた主と出会う道が開かれているのです。

「十字架への道」

1999年3月28日

ルカによる福音書19章28~44節

辻中徹也牧師

 

  • イエスがエルサレムに入城したとき、乗っていたのは子どものロバでした。当時、馬は闘いの武器でありました。ローマ帝国は多くの軍馬を持ち、戦いに勝利すると威風堂々と馬にまたがって凱旋をしました。ユダヤ人には馬を所有することが許されていませんでしたので、庶民の生活に欠かすことのできない動物でした。

  • この箇所の背景にはゼカリヤ書9章9~10節の言葉があります。ここではロバは平和の使者を運ぶものです。おそらく大柄であっただろう元大工のイエスが子ロバ乗る姿は滑稽に見えたかもしれません。しかし、それは平和のしるしとして旧約聖書の約束の実現としてのエルサレム入城でした。

  • ロバが背負った重さは、乗せている人間が背負っている使命の重さでした。今、ロバが乗せている人間は「死に至るまで神に従順」な歩みをしているのです。神は、徹頭徹尾人間を愛するためにイエスが十字架で殺されることさえもなさるのであり、そのために、この人は苦しみの一週間を開始しようとしてるのです。

  • 神の尺度によって人間が評価されることが素晴らしいと理解し、神の平和こそが完全な平和であることを承認するならば、現代に生きる私たちも「主がお入り用なのです」という言葉が投げかけられているのです。私たちは「神によって必要とされている」という自分を発見し、その自分を承認したいものです。この時に、私たちは恐れや、不必要な気遣いや、自信のなさ、いい加減さ、自己中心さ、そのような自分に縛られないで、相手を理解する自由さを喜べるのです。「神によって必要とされている」自分の具体的な現場を確認しながら生きてまいりましょう。

「主がなさったこと」

1999年3月21日

マルコによる福音書 第12章1~11節

説教者 辻中徹也牧師

 

  • マルコ12:1~11のたとえにおいてもぶどう畑はイスラエルの地、その所有者は神であります。したがってこのたとえは、イザヤのぶどう畑の歌と同様に、神とイスラエルの関係をかたるものとして読むことができます。しかしここではイスラエルの民全体を問うているのではなく、祭司長、律法学者、長老という民の指導者のあり方を問うています。彼らは(農夫たち)は神の期待にこたえられなかっただけではなく、神に叛逆し、神から遣わされた預言者たち(たとえでは僕たち)を侮辱したり、迫害したり、殺したりします。最後には神はイエス(たとえでは愛する息子)を遣わすのですが彼らはぶどう園を自分たちのもにしようとしてそのイエスを殺してしまうのです。そこで神はイスラエルの指導者を滅ぼし、その地を「ほかの人たちに与えるに違いない」と記されています。本来「ぶどう園と農夫」のたとえは9節の叛逆したイスラエルの指導者に対する神の裁きをもって頂点に達し、終わっていたと思われます。ところがこの話しには10、11節の言葉が続いています。これは詩篇118編22~23の引用です。「聖書にこう書いてあるのをよんだことはないのか。『家を建てる者の捨 てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える』」。この引用の言葉によって、殺害されたイエスを神は復活させられ、受難と復活をとおしてイエス・キリストが教会の礎石となられた、そこに神の救済の計画が実現したということを示しているのです。

  • ぶどう園の主人は農夫たちが心配なく働くことのできる完備されたぶどう園を作りました。「垣をめぐらし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」たのです。これは、イスラエルを選び、守り育む神の愛を示し、指導者たちに対する神の期待を示しています。そして主人は「それを農夫たちに貸して、旅に出ました」。神は愛の関係の中に、すべてを託して旅立っておられるのです。神が旅立っておられるというところに人間の生の現実があります。人を与えられた自由を行使する者として生かすために、神の旅立ちがあったのです。ぶどう園はこのようにして農夫たちに貸与されました。しかし、決して彼らはその所有者ではないのです。しかし主人の不在は、農夫たちにとって残虐な罪を犯すほどの自由をうんでしまったのです。

  • やがて収穫の時がきます。それは農夫たちにとっては危機のときでさえあったのです。主人のもとから三人の僕が派遣されます。最初の僕は袋叩きにされ、次の者は頭を殴られ、侮辱され、三番目の僕は殺されてしまいます。5節の後半には「多くの僕を送ったがある者は、殴られ、ある者は殺された。」とあります。異常なほどの多数の僕たちの派遣と多大な僕の苦難と犠牲は、まさに預言者たちが神から遣わされ、しかし、民に拒否され、あるいは殉教させられたことについての長い経過がしめされています。それはユダヤ教の伝統的預言者感であり、このたとえを成立させる背景ともなっています。農夫たちの叛逆はイスラエル指導者の罪を示しています。神が貸し与えられたものを神のために用いず、ただ自分のために用い、神の配慮を利用するのです。彼らはその危険な事態に警告し悔い改めを告げる預言者を逆に憎しみ続け、神に抗う者となっていくのです。しかし、神は次々に自分の僕としての預言者を送り込まれます。それは人々の回心を願い続け説得に当たる神自身の忍耐でありました。

  • ついに神である主人は、事態を収拾させるために父に変わる法的全権をもつ息子が送られます。しかし、この息子を農夫たちには殺害し、ぶどう園の外にほうり出してしまうのです。神の忍耐を裏切り、傷つけ続けた「農夫たち」の叛逆を考えるとき、それにも関わらず愛する息子が派遣されたことは理解を絶する神の恵みを表しています。ヨハネが福音書に記したように「神はその一人子をお与えになったとほどに、世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という福音がそこにしめされています。しかし、差し出された神の手を農夫たちは断ち切ってしまったのです。「さあ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のもになる」それが人間の抱く幻想であることに人間は気付かないのです。人間は自分の力で立ち、自分で自分の人生を支配することができるという幻想を持つこととによって、神のみ手を断ち切り、御子を殺し、捨て去るのです。しかし、人間にとって自分の人生とは、神から貸し与えれら、ゆだねられたぶどう園であって、その所有者は神であるのです。

  • わたしたちの人生、ぶどう園でも労働の日々なのかもしれません。人生の主人たる神は遠く、そして日毎に忘れ去られていくのです。いつしか人は自分を自分の人生の支配者と思い、それに執着し、その実りを独り占めしようとします。しかし収穫の時がやってきます。人生の四季それぞれの実りを「神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげ」、生かされているいのちと恵みを分かち与えられる<時>がやってくるのです。

  • しかし、不思議なことに、この<時>は人間には多くの場合ひとつの危機、そのまえで立ち往生してしまう時として経験されるのではないでしょうか。病むときがそうでありますし、人生の途上で出会う様々の危機もまたそうであります。この<時>を危機として経験することの中に、「主人」の不在のなかで過ごしてきた人間の現実があると言えないでしょうか。神の不在の持つ意味は人間の現実のなかでは、しばしば隠されています。けれども<危機>はこの隠されている真実を発見する「機会」チャンスでもあるのです。たとえば病が、忘れ見失われていた人生の本当の「主人」の存在に気付かせ、神の愛と配慮によっていのちと賜物をゆだねられた「神のぶどう園の農夫」としての自己の人生を見渡す機会を与えると言うことがあるのです。人間は人生の途上に出会う様々の危機をとおして何度も何度も神からのメッセージを受けるのです。この細くて遠い声を聞き分けることは強情な私たちにとって困難なことです。ついに神は「メガホン」を持ち出され、自分が自分の主人だといわんばかりの私たちの幻想や夢から呼び覚まされるのです。

  • 人生の収穫を心から神にさしだし分かち合うまでに、私たちは本当の主人である神に対して残虐な農夫のような者としてしか生きれない現実を持っています。十字架で血を流すイエス・キリストという、捨てられた者として、捨てられた者の病をおい、罪を負うことによって「癒やし」を与え「救済」をあたえて下さる方を私たちは与えられています。

    「家を建てる者が捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」十字架のイエス・キリストによって、神がなさったことを、仰ぎ見つつ歩んで参りましょう。

「落胆しません」

1999年3月14日

コリント信徒への手紙 第4章1~6節

説教者 辻中徹也牧師

 

  • パウロは律法を遵守することが救いに至る道だと信じ、それゆえ律法を守れない者を切り捨てていったあり方から、主イエスこそを神の子と信じるて生きるあり方に唯一の救いがあるのだという世界へとは生き方を変えることができました。そこに「主イエスから自分は憐れみをうけた。そしてこの福音を宣べ伝えることを務めとして託されている」という確信に立つ歩みが生み出されました。

  • パウロがコリントの教会を去ったあと、「大使徒」と呼ばれる人々からの推薦状を携えてコリントへ入った教師たちが、コリント教会の大勢を味方に付けてパウロの説いたのとはまったく異なった福音を説き、まったく別の方向へ引っ張っていこうとしていたのです。彼らはグノーシス主義者と呼ばれる人たちで、霊と体を二元論的にとらえ、霊的なものは重んじるが、肉体的なものはおとしめるという思想を持つものたちでした。その結果として彼らは地上における倫理的生活を軽視する傾向にあったと言われています。彼らは、パウロを中傷し、彼は信用ある推薦状を持たないものだと言い、よこしまな野心から自分を売り込もうとしているとふれまわったようです。しかしながら、このような窮地に立たされたなかでパウロは言うのです。「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」つまり迫害者でありながらも復活の主イエスとの出会ったという、主イエスの憐れみに触れ、務めをゆだねられたという、パウロの活動の源泉を見据えることによって、事態がたとえ窮地に立たされていようとも「落胆しません」と力強く語ることができたのです。パ ウロは真理と出会っています。主イエスの迫害者であったにもかかわらず、主イエスが憐れみ赦し愛して下さった。その福音に立っているものとしての自分自身を判断するのは「すべての人の良心」である。パウロは自分の持つ真理は良心によってかならず受け入れられるものだという信念を持っていたのです。

  • しかし、それにもかかわらず、パウロが与えられている福音を福音として受け入れられない人もいると言うことをパウロは語ります。「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道を辿る人に対して覆われているのです。」パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰの1:18に記しているように「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」ということがここに於いても人間の現実の姿として指摘されているのです。この「滅んでいく者」の不信と頑なさは「<この世の神>が信じようとはしないこの人々の心の目をくらました」からである、と、福音宣教に立ちはだかる<この世の神>に捉えられた人間のあり方を指摘しています。<この世の神>は捕らえた者に「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」とパウロは記します。<この世の神>と言う表現でパウロが表しているのはグノーシス主義者が言うところの「人間を救いに導く知恵」と読めます。グノーシス主義者は自分たちはこの「グノーシス」と呼ばれる知恵を持っていると誇りにしているのですが、そう思っている彼らこそが福 音の真理を見失っている、<この世の神>に思考をくらまされているというきつい批判を行っているのです。彼らには「キリストの栄光に関する福音の光がみえない」のです。グノーシス主義者は、グノーシス的な救済者のイメージを持っていました。彼らはそこから「キリスト」を理解しようとします。彼らにとっては復活者であり昇天者であることがキリストの栄光でありました。しかし、パウロが説く栄光は本来の意味の栄光とは相容れない逆説的なものです。パウロに於いてキリストの栄光とは、悩みと恥にまみれた十字架の姿に他ありません。グノーシス主義者には十字架によって痛めつけられ、苦難をおったキリストの中にある「栄光」は無意味なものでしかりませんでした。肉体を離れ天に昇り、復活した霊的なキリストにしか「栄光」という意味を見出すことができなかったのです。悩みと恥にまみれた十字架のキリストの姿の中に、あふれ出ている神の愛を受け止める、そういう者にこそ、パウロの語る「キリストの栄光」の輝きを仰ぐことがゆるされるのです。<この世の神>に曇らされた目には、この輝きは見えてきません。現実のなかで十字架を負うことを忘れた者たちの目にも、それは 見えてきません。十字架の栄光の輝きは価値の尺度が逆転されない限り見えてこないのです。壮大な礼拝堂、美しいステンドグラス、パイプオルガンの響き、金ぴかの衣、大会衆の熱狂の中にキリストの栄光があるのではありません。キリストの栄光は、踏みつけにされて生きる人々の側に立つ者のところに、奪われた人間性の回復を求める者の闘いの中に、苦しむ者の苦しみを共に担う者の歩みの中に、「世の目からは覆われた栄光」として見出されるものであります。パウロがそのように語り、記すことができた根拠が次の言葉に示されています。「わたしたちは、自分自身を述べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを述べ伝えている」からです。敵対者たちがこの世の神に目をくらまされているという主張する根拠は、パウロたちが何も自分を売り込んでいるわけではなく、キリスト・イエスが主であると述べ伝えているのに、それを受け止めることができないのであったら、そう言うほかないからであります。

  • パウロの宣教の中心点は徹頭徹尾「キリスト・イエスが主である」と言うことです。このメッセージは自分を売り込むなどという類のものではなく、それどころか、その宣教者をして徹底的に「僕」の位置に立たしめるものであります。「主」を告白すると言うこと、「主」を宣教すると言うことは「僕」として生きるという以外の場からは、真実な言葉とはなり得ないのです。パウロの言葉はさらにもう一段先に向けらられています。すなわち、パウロにとってイエスの「僕」であるということは、教会の「僕」となることにおいて具体化されるということです。「わたしたちは、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」というのです。パウロはコリント教会に対しても、自分を売り込み、勢力を張り、支配するどころか、裏切られ、踏みつけられても、仕え、与え、愛し抜いてきたのです。それこそが、パウロの宣教の裏付けであったのです。

  • イエスが主であることを、自らが「僕」として生きることによって宣べ伝えるのは、創造の神が、われわれの心の闇に光を照らしてくださったからだとパウロは記します。パウロは信仰が与えれるという奇跡を、天地創造における「光」の創造に匹敵するものとしています。このとき、パウロの心には、自分の回心の体験が思い起こされていたにちがいありません。それは、神からの光が彼の魂の闇を破った出来事であり、その時にパウロは新しい存在に造り替えられたのです。キリストの栄光に目を開かれたキリスト者は、新しい創造のみ業における、新しい「光」の存在のしるしであるのです。「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」とは、恥のきわみである十字架のキリストの「苦難」の「顔」にこそ、神の栄光を仰ぐことができるという認識を与える「光」であります。それは、創造者の「光あれ」という言葉によって、奇跡的な出来事としてのみ生み出される認識をもたらし、われわれを「僕」の道へと立ちいでさせずにおかない、決断を伴う認識を産みださずににおかない「わたしたちの内に輝く光」であります。だからこそ、まことの宣教者の道は僕の道であるとパウロは教えてい るのです。

  • 島松伝道所はこの地に生み出されて45周年を迎えました。多くの人々の祈りと働きによって、生み出され、また歩みを続けてきました。「落胆」せずにおれないような困難や危機がきっと何度となく乗り越えられてきたにちがいありません。パウロが「落胆しません」と語り得たように、私たち島松伝道所にもまた「落胆しません」と語りうる、信仰の光と力とが与えられてきましたし、今もまた与え続けられています。「イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光」が私たちにも常に与えられ続けてきたからです。パウロが教えたように、主を告白し、主を宣教する、「僕」として歩む決意を新たに与えられる事を祈り求めつつ、また、これまで与えられた導きを感謝しつつ、今、この時代を、この場所で生きる教会として「キリストの栄光」を仰ぎ見るものとして、宣教の歩みを共に担い合って歩んで参りましょう。

「神の前に立つ」

1999年2月28日

ルカによる福音書 第20章20~26節

説教者 辻中徹也牧師

 

  • 祭司長たちと律法学者が手を組み「正しい人を装う回し者」を遣わし「皇帝への税金」が律法に適っているかどうか問わせたのは、イエスを陥れようとした罠だった。

  • イエスはデナリオン銀貨に誰の肖像と銘があるかと問われた。そこには皇帝ティベリウスの胸像と「崇高なる神の子、崇高なるティベリウス」と記されていた。イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。

  • 回し者の問いには、皇帝に税金を納めてその支配を受け入れることは神をないがしろにすることだと言う前提がある。その一方、皇帝への税金を否定すれば皇帝の権力に突き出してやろうというもくろみがある。どちらにせよ彼らはイエスを抹殺するために皇帝の権力を利用しようとしている。それは皇帝の支配を承認し皇帝の権力に寄り頼んでいることに他ならない。

  • 皇帝が自らを「崇高なる神の子」と自称し権力を主張し支配を貫こうとする状況のなかで、それらにからめ取られず、どのように自分が本当により頼むものに寄り頼む自由を保ち、自分らしい生き方を選び取っていけるかが問われている。「神のものを神に返す」歩みを問い、求めつつ歩んでいきましょう。