Archive for admin

「島松だより 第26号」 2009年12月06日

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「島松だより 第25号」 2008年12月07日

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「島松だより 第24号」 2007年12月02日

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「島松だより 第23号」 2007年02月03日

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「島松だより 第22号」 2005年12月04日

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「島松だより 第21号」 2004年11月28日

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「島松だより 第20号」 2003年12月07日

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「島松だより 第19号」 2002年11月10日

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「一粒の麦」

2000年4月9日

ヨハネによる福音書 第11章20~26節

辻中徹也

 

  • 友人のMが本を出版することになった。10年前、沖縄の伊江島に移り住み、反戦地主のリーダーである阿波根昌鴻氏のもとで暮らしてきた。彼が毎月、友人や知人に当てて書き綴った手紙などが出版される。彼は伊江島で出会ったこと、そして自分自身と向き合ってメッセージを発信しつづけた
  • 今朝の個所に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とある。イエスは十字架を引き受けて生き抜かれ、多くの者が永遠の命を与えられた。イエスと多くの人々に起こった真実が麦の命にたとえられる。
  • 伊江島と言う小さな島に神はMという麦をまかれたのだと思う。彼の生身を通した、血の通ったメッセージに私は生かされてきた。多くの人々がそうだったと思う。考えてみれば、彼が伊江島に蒔かれた一粒の麦であるように、だれしもが神から与えられた持ち場で、一粒の麦として生きているのだと思う。
  • 私たちそれぞれが、一粒の麦である。一粒の麦として自分の持ち場を生きることが、互いを勇気付け、励ましあい、揺さぶりあい、互いを生かし合うネットワークを生む。
    私たちの教会がそのような群れへと招かれていることを覚えたい。一人ひとりが一粒の麦となる幸いへと招かれている。

「イエスの姿が変わる」

2000年4月2日

マタイによる福音書 第17章1~8節

辻中徹也

 

  • イエスと三人の弟子とが高い山に登った。イエスは、顔を太陽のように輝かせ、服は光りのように白く輝いていた。そして、モーセとエリヤと語り合った。モーセは旧約の律法をあらわし、エリヤは預言を表す。イエスは身に迫る十字架の苦難を突き抜けたところにある神のみ心を見つめ、苦難を神のみ心に適った事として見つめておられたに違いない。

  • ペトロはイエスとモーセとエリヤのために、ここい仮小屋を建てましょうと言った。仮小屋とは幕屋のことであり、神と語り合い、神を礼拝する場である。しかし、そのとき雲間から神の声がした。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」。神は救いの実現としてイエスと言う人格を与えられた。イエスに聞くことが私たちの礼拝である。

  • 山を下りたイエスを待っていたのは、混乱であった。悪霊が子どもを支配し、親がうろたえ、弟子たちが無力さをあらわにし、群集が取り巻いていた。イエスは嘆き、叱責し、苛立たれる。しかし、この混乱の中でもその子を悪霊から取り戻された。

  • イエスは山で栄光に包まれた。しかし、そこに留まらず山を下りられた。私たちが翻弄され、くたくたになり、途方にくれるような日常にイエスはおられる。限界を痛感し、確かなものがなく、孤独におちいるとき、そのときこそ「これに聞け」と神は主イエスを私たちに与えて下さっている。