「自分の十字架を背負って」 

2000年3月26日

マタイによる福音書 第16章 13~28

辻中徹也牧師

 

  • フィリポ・カイサリア、この町には皇帝を礼拝する神殿、ギリシャの神々を祭る神殿があり、自然をつかさどり豊穣をもたらすとされたバールを崇める一つの根拠地でもあった。
    この地でイエスは「あなたがたは私を何者だというか」と弟子たちに問われた。ペトロは「あなたはメシア・生ける神の子です」と答えた。生き生きと生き抜くことが困難なこの時代に生きる私たちに、この告白が自分のものとして与えられる必要があると思う。
  • イエスはペトロの告白を聞き、「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と言われた.
    アラム語でペトロは「ケファ」、岩を意味する。神の救済史の目的はイエスによって先取りされている。その先取りの共同体が、イエスが言う「私の教会」であった。しかし、その土台となるペトロが完全無欠であったかというそうではない。
  • イエスはこの後、多くの苦しみを受けて殺されると、弟子たちに受難予告をなさった。
    ペトロはイエスに「そんなことがあってはなりません」といさめたが、「サタン、引き下がれ」と厳しい叱責をイエスから浴びせられた。教会は死から解き放たれ、命、復活につながっている共同体であるが、ペトロが受けたように「私の邪魔をするもの」「神のことを思わないで人のことを思っている」と指摘されねばなない共同体でもある。
  • しかし、ペトロをイエスは赦された。神の愛がイエスという人格において十字架のなかにあらわになったことをペトロは知った。ペトロは敗北にしか見えない十字架が、苦しみ多き状況の中に与えられた希望であり救いであることをイエスの復活の出来事として知った。「自分の十字架を背負う」ということは、主イエスによって、主イエスのために自分の命を捧げることである。「私のために命を失う者は、それを得る」というイエスの導きと励ましが招きとして与えられている。この時代の中でイエスが何者であるか告白して生きる恵みと幸いを私たちは与えられている。

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