Archive for 説教要旨

「その星を見て」

1999年12月26日

マタイによる福音書 第2章1~12節

辻中徹也牧師

 

  • 今朝の個所には東方の三人の博士たちが星に導かれ最初のクリスマスに救い主を拝んだことが記されている。彼らはヘロデ王に会見し「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と尋ねた。ヘロデ王は不安を抱いた。自分に代わる王の出現に不安を抱かずにおれなかった。エルサレムの人々もまた不安を抱いたとある。

  • マタイはユダヤ人の不信仰と異邦人である博士たちの信仰のコントラストを際立たせてこの物語を書いている。新しい王の誕生が不安となり、その王を殺そうと企てさえする人間の現実の一面が記されている。一方、自分の出てきたところに留まっていれば生活も安定し、幸福と快楽を満喫できた博士たちは、富も時間も命さえも惜しまず、自分の宗教にもとらわれず、真実な永遠の救いを求めて行動を起こした。これも人間に開かれた道だ。

  • 東方の博士たちの物語にキリスト教会はさまざまな解釈をほどこしてきた。その中にその捧げものを通してキリストが誰であるかを伝えているものがある。黄金はキリストが王であることを示す。乳香はキリストが祭司であることを示す。そして没薬はキリストが死者であることを示す。キリストは十字架の死に至るまで神に従順であった。私たちも死に向き合うとき不安とむなしさと恐怖を抱く。
    しかし、そこにはキリストが共におられる。キリストを知るということは死を超えた復活の希望を知るということである。

  • 「人間は死んだら星になるんや」という祖母の言葉を、あるとき思い出し、ほんとうだとうなづいたことがある。死んでいった人が死と向き合いながら希望をもち、精一杯生きた。その姿が、夜空のような暗闇の現実を星のように照らしてくれることがある。気がめいりそうなときその星に導かれ、歩むべき道へ導かれ、目指すべきゴールへと励まされて歩き出すことがある。真実な王として、祭司として、死者として生き抜き死んでいった主イエスのきらめく星が、多くの死者の星を伴って、私達すべての者に与えられている。やがて自分も誰かの心の闇を照らす星とされるときが来る。新年を精一杯生きていこう。 

「お言葉どおり」

1999年12月19日

ルカによる福音書第1章26~37節

辻中徹也牧師

 

  • 1999年は政治・経済・環境・教育そして宗教の分野にも暗い影がさした年でした。私たちの教会には光が与えられました。中高生が与えられ、二人の幼子が与えられました。一人ひとりがその人らしくあることが私たちの宣教であり、一人ひとりが宣教の主体です。この光を、影が濃くなる世界に掲げていきたいと願います。

  • イエスの誕生の告知を受けたマリアは「まだ男の人を知りませんのに」と答えました。生まれてくる神の子がヨセフの血統に属することを超えた神の聖霊による子であり、民族的な狭い権威や価値を超えていくことに著者は意味を見出しています。

  • 「主があなたと共におられる」ということは、いかなる人間の願望や期待や思惑をも超えて神の救いが実現することを示します。「お言葉どおりこの身になりますように」というマリアの決断は限界を持つ一切の権威や価値を超えて働く、神による権威、神による価値によって生かされ、生き抜くことを意味しました。

  • 星野富弘さんが頚椎を損傷し手足の自由を奪われたとき、再び生きる力を得たのは、ある墓に刻まれた聖句を思い起こしたからです。「私のもとへ来なさい。休ませてあげよう」との言葉は、幼子を失ったキリスト者である両親が墓に刻んだものでした。星野さんの口に筆をとらせ、絵や詩を描く力を与えた信仰の原点に、生まれてまもなく召された幼子の死があったことを後にその両親は知り、その死の意味と慰めを見出されました。神による権威、神による価値が、人間のものさしを超えて働いたのです。

  • 星野さんが草花を見るそのまなざしは、主イエスのまなざしでもあります。道端の小さな花のような民、虫に食われた葉っぱのような徴税人、折れてもなお起き上がろうとする茎のような病人や障がい者、夏の陽で焼かれたような罪人と呼ばれた女たちや男たちをイエスはいとおしみ、体に触れ、心に触れ、魂を力づけられました。そのようにして神の国が到来したのです。人間の権威や価値から自由に解き放たれて、静かにひとりと向き合いつづけた主イエスの小さいけれども大いなる出来事が、「お言葉どおり、この身になりますように」というマリアの小さな決断から生まれました。この決断が私の決断として、クリスマスを祝う今日、与えられますように共に祈りましょう。 

「良き知らせを伝える者の足」

1999年11月28日

イザヤ書 第52章1~10節

辻中徹也牧師

 

  • 私は、学生の時、野宿労働者支援の活動に参加したことがあった。京都駅近辺で野宿しているおじさんに、おにぎりやみそ汁を持って訪ね歩いた。彼らの 立たされている場所と、親のすねをかじった甘っちょろい自分の立つ場の隔たりの遠さを感じた。しかし、彼らと出会った場に主イエスも共にて下さったと信 じている。臨時宿泊所へ着いたときのあるおじさんの嬉しそうな目の輝きに主イエスが共におられる喜びを見た想いがしている。

  • 第2イザヤは、紀元前539年前後、民がバビロン捕囚から解放される前後に活動した。エルサレムへの帰還と荒廃した都の復興を神の救いの実現と捉え た。しかし、半世紀を異教の地で過ごした民は、これまで築いてきた生活を捨てて、荒れ野を横切ろうとはしなかった。安住の力でない民の拒絶に、第2イ ザヤは深い挫折を経験した。

  • それでも主は民を「贖う」者である。「贖う」とは奪われた人や土地を一番の近親者が身代金や代金を支払って取り戻すことだ。やがて「贖う」は、罪からの 救いをも指す言葉となった。一番の近親者のごとく、神が圧迫された者を解放し失われたものの回復を引き受けて下さるのだ。

  • 第2イザヤを通して神は言われる。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」素足に近い姿で知らせに走った者の足がきれ いなはずはない。汗や泥にまみれているはずだ。しかし、神の贖いの知らせを人々と分かち合う「足」こそ、もっとも美しいのだ。挫折を知っている第2イザ  ヤの足もそうであったように、汚れ、傷つき傷みながらも「主の来臨の希望」を伝える「足」として歩ませていただこう。

「神のすばらしい約束」

1999年11月21日

ペトロの手紙二 第1章3~11節

辻中徹也牧師

 

  • 収穫感謝の日ということを念頭においてテキストに耳を傾けてみたい。自分は収穫の感謝から遠いところに生きてきたし、今もそうだと思う。土や肥料、汗  にまみれて天の恵みにすべてをゆだねる結果生まれるのが収穫の感謝だと思う。都会に育った自分は収穫の過程の「農」と言う世界から遠い。しかし、イ エスの譬えは「農」の体験にこそ響く。

  • 与えられたテキストは、グノーシス主義者と呼ばれる偽教師達の悪影響を重く見た著者の、教会への勧めと励ましが記されている。グノーシス主義とは善 悪の二元論でこの世を見る立場であった。創造神と被造物は悪であり、人の身体も悪とみなされた。一方、人の魂は神と同質の善とみなされた。そこから 仮現論(ドケティズム)が生まれた。キリストの死は、見かけ上のことで、キリストの魂は受難の前に身体を脱ぎ捨てたとする。

  • 新聞で「ホーリー・バージン・メリー」という聖母の絵が「反宗教的」だと物議を醸していることを読んだ。作者はイギリス在住の黒人画家でカトリック信徒だ。 彼はアフリカ旅行後、作品にゾウの糞を素材に使うようになった。ゾウの糞を使った黒人女性のマリア像は彼のアイデンティティを表現するひとつの信仰告 白だと感じた。管理され整備された都市で、「農」や自然との交流を失った宗教こそ「反宗教的」なのではないだろうか。

  • あるがままの日常を生き、隣り人を愛し、十字架の苦難を死んでいった主イエスが分からなくなったグノーシス主義の偽教師たちとどこか通じる狭さが私達 にないだろうか。信仰・徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛を力を尽くして「加えなさい」とあるが、自分の日常にこれらを具体的に喜んで注いで歩むとき、私達は主イエスキリストを知るようになり、永遠の御国に入るというすばらしい約束が与えられている。

「信仰による義」

1999年11月14日

ローマの信徒への手紙 第4章13~25節

辻中徹也牧師

 

  • アブラハムは祝福の源となる約束を神から受けました。それは私たちの教会に対してもなされている約束です。私達は祝福の源として歩んでいるか問われています。また、子のいなかったアブラハムに、神は星の数のほどの子孫を与えると約束されれました。神は神の民を選ばれました。私達の教会にも仲間を与えて下さるに違いありません。

  • パウロはアブラハムの信仰による義を取り上げて、自分たちも行いという功績や条件で義とされるのでなく信仰によって義とされることを自分の確信する福音として記しています。神と神が甦らされたイエスを主と信じるとき、わたしたちは神との真実な関係に生かされ、ありのままを良しとされるのです。

  • ひろさちや氏は日本人の宗教観は、御利益宗教でアブナイと批判しています。信仰というコインを入れれば缶コーヒーのように救いが与えられるという論理は少し違うのです。信仰のゆえに楽になったり救われることはもちろんありますが、信仰のゆえに苦しむこともあるのです。信仰がなければ耐えられない歩みを引き受けるところに救いがあります。

  • 自分の信仰というコインで神を操るのではなく、神の迫りを受けて自分を神の道具として明け渡していく中に、アブラハムの信仰があり、主イエスの示された救いがあります。私達の群にも神が神の民を増し加えて下さること、私達が神の祝福の源として生きることを神は約束されています。約束の実現を信じ、待ち望んで共に歩んでまいりましょう。

「信じる者を義となさる」

 1999年11月7日

ローマの信徒への手紙第3章21~26節

辻中徹也牧師

 

  • 今朝の聖書日課のテ一マは<保全の契約 ノア>です。人間の悪に心を痛め た主は、被造物を「地上からぬぐい去る」決意をしました。洪水の後、主はノ アとその息子達と「保全の契約」を結びます。二度と滅ぼさない契約のしるし に、主は雲の中に虹を置かれました。人間の悪は洪水の原因でしたが、その悪 を主は愛と忍耐と憐れみの対象とされたのです。肉親を失った者にとって死が 神の罰や裁きならば耐えられません。しかし、主は愛のうちに召された者をお いていて下さるのです。そこに慰めを与えられます。

  • 伴侶の死は、残された者に大きな衝撃を与え、体の変調さえきたします。 「伴侶の死を悲しむ気持の流れに素直に向き合い、感情を表現することが大切」 で、この「喪の仕事」が不十分だと、抑うつ状態がひどくなったり、不眠、食 欲不振が長引いたりするそうです。 「死別は喪失だけでなく、得られるニともある」。「悲しみを経験することで優 しくなれる。伴侶の生き方や考え方が生前よりも鮮明に見え、励まされること もある。のこされたパートナーへの故人からの贈り物」。そんな見方を勧めて いる精神科医もおられます。

  • 十字架を負って死んだイエスは、三日後復活されました。イエスの死に打ち ひしがれていた者が再び立ち上がり、生き生きと生き、他者をも生かす者ヘと 変えられました。彼れもまたイエスから贈り物を頂いたのではないでしょう か。ファリサイ派という律法主義者だったパウロも、回心の出来事の中で、イ エスからこの贈り物をもらったのでしょう。

  • イエスをキリスト、救い主と信じ受け入れることにより、「神の義」が与え られるとパウロは記しています。「神の義」は神と人間との関係が真実なもの となり、人間が神の愛の対象として救われる、その実現を言います。死に至る まで神の愛を生き抜かれたイエスと出会い、信じ、受け入れるところに神と私 の関係は回復されます。イエスが死によって与えた贈り物は復活の命であり、 永遠の命です。ー人の人間がそニに生きる力を与えられるのです。そして神の 国はその一人を通して生み出されていくのです。この自覚を持って与えられて いる命を生きる者とならせていただきましょう。

「新しい神殿」

1999年 10月31日

ヨハネ福音書第2章13~22節

辻中明子牧師

 

  • 日本人は、「感情的」であると言うとを不定的に受け止めが ちです。聖書にもイエスの「感情」を表現する場面は限られてレ』 ます。しかし、イエスご自身は、出会っている人々の感情を大切 にし、また、ご自身も感情的に行動されたのではないかと思いま す。

  • 神殿でのイエスのー連の行動は、まさにイエスの激しい怒りで す。人々は、過越しの祭りにエルサレムの神殿ヘ規定どうりの捧げ 物を携え参ることが、人生の重大事であり、信仰の証しでし た。多くの商人が便宜をはかり不当に利益をあげていました。 46年かかって造られた伝統的な神殿に中心が置かれていました。 イエスは、この信仰を怒り「イエスの十字架」こそ中心であると 宣言しました。

  • 本日は、宗教改革を記念した礼拝です。伝統の上に築きあげら れた形骸化した信仰が崩されたことを覚える日です。そして、今 私たちにも、同じ問いがなされています。これまでの価値基準に しがみついている私たちの生き方から、イエスご自身が「新しい神殿」 であるという生き方へと変えられたいものです。

「キリストによる創造と和解」

1999年10月24日

コロサイの信徒ヘの手紙 1章15~20節

辻中徹也牧師

 

  • 教会暦は今日から降誕に向かう新しい一年を歩み出します。聖書日課に与えられたテーマは「創造」です。与えられたテキストは「御子キリストによる創造と和解」という標題のついた文章の一部です。私たちには「キリストによる和解」はなじみやすいです。神と人間との間にある 的外れという「罪」を主が十字架の苦難を受け顧ってくださいました。 けれども、「キリストによる創造」となるとあまりなじみがありません。

  • ヨハネ福音書の冒頭を見ますとロゴス・キリスト論と呼ばれる神学思 想が展開されています。天地の創造に立ち会った人間はいません。しか し、キリストを知った者がキリストをどのような方なのか言い表そうと したとき、また世界が創造された始まりがどのようであったか語ろうと するとき、その出発点は「言は肉となって、私たちの間に宿られた。 私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵 みと真理とに満ちていた。」というキリストとの出会いの中にあるので す。

  • コロサイの信徒への手紙の著者もまた「…万物は御子において造られ たからです。万物は御子によって、御子のために造られました。御子は すべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と記しています。万物の始まりに先んじて御子キリストが神と共におられた。そう告白し、讃美せざるを得ない出会いをこの著者もまた体験しているのです。神の人間に対する愛は、御子キリストの内に溢れるごとく余すところなく宿り、十字架の死によって平和を打ち立て、ご自分と万物を和解させられた。この出来事との出会いが「キリストによる創造」の告白と讃美を呼び起こしているのです。

  • キリストの示された愛が万物を貫いている。それは今、この時に至っても真実です。宇宙のどこにいても、いついかなるときもクリスマスの喜びは私たちを貢いているのです。その喜びに応えて歩む者とならせていただきましょう。

「主の食卓」

1999年10月10日

ルカによる福音書 14章15〜24節

辻中明子牧師

 

  • イエスは、私たちを共に生きる相手として「主の食卓」に招 いて下さっています。

  • 「大宴会」のたとえによると、①財産や家族を理由に招きを 拒むグループ。②貧しい人、体の不自由な人ゆえに招かれた グループ。③さらに、強制的に、無理にでも招かれるグループ が登場しています。①のグループは、私たちの姿と重なりま すし、②のグループは、成程イエスのいつものメッセージと重 なります。③のグループの登場の意味はなんでしょうか。イエ スは③の人々をより強く招いているのではないでしょうか。

  • イエスの招きとは、私たちの決断や判断が優先したり、招か れるための納得の理由があったりするのではなく、私たちの状況にお構いなく、在る意味で強制的で無理やりともいえる迫力 があるのです。

  • イエスの「強制された招き」が無かったなら、私自身洗礼を うける時も、牧師への決断も含めこうして教会に連なってはいなかっただろうと思います。私の思いを超えて、神は本気で招 いてくださることに、大きな喜びを感じます。 共に「主の食卓」にあずかりましょう。

「わたしは生きている」

1999年10月3日

ローマの信徒への手紙 14章7~12節

辻中徹也牧師

 

  • マザーテレサは名刺にこんな言葉を記していたそうだ。  『沈黙の果実は祈りである。   祈りの果実は信仰である。   信仰の果実は愛である。   愛の果実は奉仕である。   奉仕の果実は平和である。』 彼女の偉大な働きは沈黙から始まった。「私は生きている」と語られる神との出会いが一人一人の人間を 変え、方向づけ、社会を変えていく。

  • 「私は生きている」という神の語りかけを私たちは聖餐において与えられる。聖餐において主イエスを想い起こすとき、神が復活させられた主の命が、私たちを根底から生かす。聖餐に与った私たちは、新しい神の器として、キリストを頭とする体として、この世界への宣教へと招かれ、遣わされ、押し出されていく。

  • 私はクリスチャンホームに育った。自分にとっての教会は多面的で、教会が好きだと胸を張って言える出会いもあったが、一方で「理屈、退屈、窮屈」を強いられる場でもあった。「主のために生き、主のために死ぬ」(7節)と書かれた短冊を親が部屋に掛けたとき「もうあかん」と窮屈さに耐えかねた思い出がある。その私を救ってくれたのは「ブラザーサン、シスタームーン」というフランシスコの生涯を描いたイタリア映画だった。あなたはあなたのままでいい、神は愛していて下さる。そんなメッセージを与えられた。感動にふるえていた私は、「私は生きている」という神の語りかけを聞いていたのだと思う。

  • 今朝の箇所は、パウロが兄弟を裁く者に、「私は生きている」と言われる神こそが一切の基準であり根拠であると語る。人はどうであれ、今、ここに生きる「私」が主イエスによって、神によって、何を望み、いかに喜び、どこへ向かう勇気を与えられているのかを問われている。私たちは一切の罪や過ちを越えて、この問いに応える者でありたい。